or my despair will kill me.

架空の多神教文化における祭祀のあり方

学生時代に多少TRPGを嗜んだ人間なのですが、遊びながらちょっと疑問に思ったことがありまして。

ソードワールドでもD&Dでもそうですが、神官のキャラクターは当たり前に「自身が信仰する神格」を設定します。多数の神格の存在を認めている時点で確かに多神教っぽくはあるのですが、その祭祀文化はむしろ多数の一神教が併存している風に見えます。いや、D&Dは3版しか知らないので、あまり大きなことは言えないですが。

翻って現実世界に目を向けてみます。僕にとって最も身近な多神教文化である日本では、神主さんが特定の神様に専属で仕えているというのは、むしろ稀じゃないかと思うのです。

 

例えば僕の故郷である、北海道の典型的な農村の祭祀を見てみます。まず町の中央に比較的整備されたキレイ目の神社があって、そこに神主さんが住んでいます。祭っている神様は確か大国魂命大己貴命少彦名命・埴安姫・保食神。その他に地区ごとに小さな神社があって、本州の出身地から連れてきた氏神様を祀っています。また、神社ではないですが関連する施設として、戦没者慰霊碑が町の中にあります。

祭祀を伴う行事として、まず夏祭りがあり、春と秋には各地区の農家さんの豊作祈願があり、戦没者慰霊祭があり、何か工事をするとなれば地鎮祭をしなければいけない。あと初詣もありますね。そのため神社の祭神に加えて、年神様、各地区の氏神様と、建築工事にあたっては土地神様、慰霊祭では戦没者英霊をそれぞれ祭ることになります。そして神主さんは一人しかいませんので、必要に応じて各地の神社に出向いたり、工事現場に仮説の祭壇を置いたりしてお祈りしている。つまり、一人の神官がそれだけ多くの神様との間を繋いでいるという事になります。

 

そしてここからは推測ですが、ローマ=カトリック成立以前のヨーロッパにおいても、一人の神官が複数の神々との仲介役となっていた、あるいは庶民も複数の神様を等しく同時に信仰することに疑問を持っていなかったのではないでしょうか。カトリックの聖人信仰がそもそも土着の神々を取り込むことで成立した背景を考えると、根本は同じだったのではないかと。それこそ今でもイギリスには諸聖人の日(オールセイントデー)なんていう祭日もあるくらいですし。

この辺、もう少し詳しく調べてみたいんですけど、それっぽい本がなかなか見つからないので困っています。とりあえずは金枝篇をもう一度精読してみるつもりでいますが、事によっては洋書も視野に入れつつということになりそう。いや、洋書とか読める気がしないですけど。

閑話休題。そうした多神教的価値観への理解が乏しいまま、D&Dのデザイナー連中がアメリカ的=プロテスタント的世界観からの演繹で多神教を描こうと試みた結果生じた齟齬が、恐らく僕の感じた違和感の根源でしょう。そして、和製TRPGのルールでも、その世界観を引きずってしまっている。ついでに言えばTESシリーズの宗教観も同様。一方で、少なからずカトリックの影響を残しているイギリスに目を向けると、トールキンロード・ダンセイニ、それから畑は違えど小泉八雲やイェーツなんかを輩出しているわけです。同じ英語圏でありながら、この違いはなかなか興味深く思います。

 

ともあれ、我々は日本人なんですから、「アメリカ人から見た多神教」の影響から脱して、「日本人から見た多神教」を描いたファンタジーがあって然るべきと思っているわけです。それも単に日本に題材をとった和風ファンタジーというのではなく、そこから逸脱した荒唐無稽を真面目に描いてこそのファンタジーだと思うのです。

 

などと気炎を上げつつ、筆はちっとも進んでいないのですが。生命の担保に自由を差し出さねばならない境遇に嘆息しつつ、トールキンにならって夜ごとに筆を執り、亀の歩みを続けるしか無いわけです。

そもそも「魔法」って何でしたっけ?

いつの頃からか、僕はいわゆる「魔法」や「魔術」と呼ばれている何かに執着するようになりまして、その正体をあれこれ考えるのがライフワークのひとつになっています。

「本物の魔法を描きたい」。

それが執筆のモチベーションの根底といっても良いくらいに。

魔法を疑似科学的な法則体系で説明しちゃったら、それはもうファンタジーじゃなくてSFの範疇じゃねぇのかな、と。嫌いじゃないんですけど、どうにも違和感が残るというか、現実世界の歴史において過去確かに存在した、あるいは現在もひょっとすると存在する、「本物の魔法」への敬意に欠けるような気がします。

 

おおむね18~19世紀ごろを境に、この世界から魔法は急速に駆逐されていきました。かつて魔法と呼ばれたものの大半は、小手先の手品、単なる物理現象、あるいは統計学的にまったく無意味な迷信として次々に処理されていきます。

同時にそれは機械論的世界観による「希望の否定」でもあったのではないかな、と。

現代においてさえ、魔法や奇跡は救いを求める人間の最後の拠り所となっています。当時の世間に溢れる「魔法」は、その奇跡がひょっとすると実現するかもしれない傍証であり希望だったでしょう。それこそ、手品師のハリー・フーディニが、亡き母に会うために心霊術に傾倒したように。

しかし、その魔法が科学によって一つずつ潰えていく。

科学に疎い人々は、そうした世界の変化をどう感じ、どう受け止めていったのでしょう。ロマンをビンビンに感じます。

 

結局、僕が抱く魔法のイメージの原典は、子供の頃に読んだシンデレラの絵本に行き着きます。

深夜零時に魔法は解けて、一夜の甘い夢は終わりを告げたはずだった。なのに何故か、王子はガラスの靴を手掛かりにシンデレラを探し出し、物語は幸せな結末を迎えます。

なぜ魔法が解けたのに、ガラスの靴が残っていたのか。

それを科学的に説明しちゃうのは、ちょっと野暮いと思うのです。

このブログの方向性について

何を書くともまだ考えてないですが、書いている小説のネタ集めだとか、資料として目を通した本の感想だとか、どんな風に書こうか頭の中でもやっと考えていることとかを記録していこうと思います。それとは離れて日常感じた事や考えた事を垂れ流すつもりでいますが。

要するに雑記帳。読んだ人が価値を決めれば良いでしょう、なんて開き直ってみたり。